白痴 ドストエフスキー 亀山郁夫訳 光文社文庫

「罪と罰」を読んでから、ドストエフスキー熱が入り、「罪と罰」の後作である「白痴」を読もうと思いました。それともう一つ理由があります。

私が大学に入って間もない頃、祖父似の教授に言われたんです。

「お前は、白痴だ!」と。

当時、白痴の意味が分からなかったので、その時は別に腹をたてることもなかったのですが……

家に帰り辞書で意味を調べました。

意味を知った私は、腹はたちましたが、むしろ、おじいちゃんからのアドバイスでもっと学びなさいというメッセージだと思いました。

白痴、という言葉にはそういう思い出もあり読んでみたいと思いました。

「罪と罰」は、動きがある小説だったので、サスペンスドラマを見るようにどんどん引き込まれていったのですが、「白痴」は動きがなく場面もあまり変わらないので非常に読むのに苦労してしまいました。映画で例えるなら、イーサン・ホーク、ジュリー・デルビー主演のビフォーシリーズみたいな感じです! 非常に深みがある最高傑作なんですが、ワクワク感やスリルなどないので若干途中で飽きてしまいます!

「白痴」もまさにビフォーシリーズと同じ感じでした!読むのに一ヶ月もかかってしまいました。

さて、前置きが長くなってしまいましたがいってみましょう!

凡人と非凡人

凡人(凡庸)の話が、第四部2のところ、イッポリートがワルワーラとガーニャに話す場面で出てきました。

そう、死に臨んで、ぼくはこう感じたのです。もしも、これまで一生をとおしてぼくを迫害し、ぼくが一生をとおして憎みぬいてきたタイプの無数の人間から、その代表格を、せめてひとりでも愚弄しつくすことができたら、もうどんなに安らかな気持ちで天国に行けるか、って。そういうタイプの、絵に描いたような人物が、そう、尊敬するあなたのお兄さまなのですよ。ぼくはあなたを憎んでいます、ガヴリーラさん、そのわけはひとつーあなたからすると意外に思えるでしょうがーそのわけはただひとつ、そう、あなたがすさまじく厚顔で、すさまじく独りよがりで、すさまじく俗っぽくて、すさまじくいまわしい凡庸さの典型であり、具現であり、権化であり、頂点だからですよ!あなたは、凡庸さそのものだ、疑うことを知らず、オリュンポスの神々みたいに泰然自若としている、凡庸さそのもの。あなたは、ルーティーン中のルーティーン!自分の思想なんて、あなたの頭にも、胸のうちにも、いちどとして実を結んだことがない、これっぽっちもね。ところが、あなたときたら、果てしなく嫉妬深い。あなたは、自分が天才だと固く信じてらっしゃるけれど、それでもどうかしてうまくいかないときは、やっぱり疑いが首をもたげるものだから、じりじりしたり、人を羨んだりする。そう、あなたの行く手には、まだ黒い点が見えかくれしている。その点が消えてなくなるのは、あなたが完全にばかになりきったときで、それも遠いはなしじゃない。

どうしてイッポリートは、凡人、ガーニャを憎むのか?

ここでもう一度、「罪と罰」を思い出したいと思います。

そこでは、人間は2つに分けられると言っています。

一つは、凡人。

もう一つは、非凡人。

非凡人の例として、ナポレオンやヒトラーなんかを列挙していました。(「罪と罰」もブログに書いたので良かったらのぞいて見てください罪と罰)

「罪と罰」の主人公ラスコーリニコフは、独りよがりな大義名分のもと高利貸しの老婆を斧で殺害する。弱者の足元をみて高利貸しをしており、お金を借りた人達からよく思われいません。その老婆を殺害することでラスコーリニコフが罰を受ける必要は、殺害した時点ではないと思っていたと思います。ラスコーリニコフは、弱者を救った英雄、非凡人になったのです。

人はみな自分は凡人であると認識しながら、いつか非凡人になりたい、という欲があると思う。

ほとんどの人が凡人だと思う。凡人は、憎まれる存在なのか?非凡人は、称賛される存在なのか?

もう一度、上で引用した文書、最後の辺りを読んでいただきたい。

つまりこういうことです。

自分は天才だと固く信じているが、いままで自分の思想は実を結んだことはない。ただし、完全にばか(白痴)になりきったときに、思想は実を結ぶ。

自我の超越。白痴。

多くの人は、すべてのものごとに意味を見出そうとします。しかし、ものごとの中には、意味もなくなされることもあります。そういう時の人の思想は、言葉に表すことのできないものであります。

通常、常識が感情にまさりものごとはおきますが、そうでないこともあります。

自我を超越した力に翻弄される人間の精神状態にあるときです。

つまり、ばかになったとき。現代風に言えば、イッちゃう、ぶっとんでるときです。

白痴とはこういう状態になったときのことだと思います。

「罪と罰」の主人公ラスコーリニコフが、「白痴」のロゴージン、ナスターシャ、(アグラーヤ)が上記で述べた白痴になった人達ではないかと思います。

「白痴」の主人公のムイシキン公爵は、もう一つの違う意味の白痴であったといえると思います。

子供と同じように、常識が感情にまさることはない、心はまさに子供と一緒である。子供のような究極の純粋無垢な心をもつような大人を、白痴と言うんだと考えます。

2つの愛

ムイシキン公爵は、ナスターシャとアグラーヤの2人を愛してしまいます。

2つの愛はべつものです。

ナスターシャに対する愛は、憐れみや同情などからくる、母親的な愛です。

一方、アグラーヤに対する愛は、尊敬、美しさからきた愛です。

愛の違いはあるが、ムイシキン公爵は、二人を同時に愛してる。

通常、ナスターシャに向けた憐れみの愛は愛と言わないのではないかとおもいたい。ただの偽善者になりたいだけなのだと思う。俺がいないとお前だめだな!的な愛。

ただ、思い出して欲しい。ムイシキン公爵は、究極の純粋無垢な子供の心をもつ、白痴である。自分が、どっちを選べば幸せになるかという考えはない。まぁアグラーヤを選んでもそんなに幸せにはなれなさそうだが…。

最後に

ドストエフスキーは、最後まで物事を言わず、読者に考えてもらうような作品にしあげているので、今回のこの白痴も罪と罰に引き続き、すごくすごく考えさせられた作品でした。

名作でした。ただ、非常に難しい本だったので頭がパンク寸前です。また5年後、10年後と読み直したいなと思いました。

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海外でしばらく生活し、日本に帰国したが、また海外で暮らしたい。 今は大好きな日本での生活を楽しみたいと思ってます。 趣味は、読書、旅行、落語、ヨガ、ランニング、壊れた物を直す事、物をエイジングする事。 本は、いろいろな事を教えてくれるから大好き。私の大先生みたいなもんです。 旅行は、学生の頃はよく一人旅行ったな。家族、パートナー、友達ともよく行く。どっちにもそれぞれの良さがあるし、旅先での出逢いっていうのはたまらなく好きだ。寅さんみたい、旅先でものすごく仲良くなってしまうっていうのはめったにないが、出逢いがあると旅はグッと面白くなる事は間違いない。 落語は、いつも古今亭志ん朝(3代目)ばっかり聞いてしまう。大ファンなのだ。声が良い。柳田格之進、文七元結、井戸の茶碗とかきくともう涙が出て出てしょうがない。代脈とかは、笑いたい時によくきく。 ヨガ、いちおインド政府公認のインストラクターの資格を持っている。だがしかし、活かせてない、、、、。という話しはさておき、ウブドに毎月行ってヨガしてたほど、ウブドでヨガするのが好き。 ランニングは、かれこれずっとやってるな。海外でもレースに出たり、国内でもやってた。だがしかし、最近レース出てないな。近所をのんびり走る事が多くなりました。ランナーズハイ、これは本当にヤバイです!たまりませんね。 壊れたものを直すのは、本当に大好き。ボンドでつけたり、縫ったりとそんな程度ですけど。物を大切に使うのも好き。一番長いのは、幼稚園の頃から使ってる湯たんぽかな。 エイジングは、お気に入りのラウンジチェア、南部鉄瓶、南部鉄の急須、バック、コート、靴。 こんな私ですが、どうぞよろしくお願いします。