ウィーンのアルベルティーナ美術館で、初めてシャガールの絵と出逢いました。シャガールの予備知識も何もありませんでした。
私はシャガールの絵を前に涙が止まりませんでした。ものすごい悲しみや辛さと共に幸せが同居しているような。その悲しみや辛さが、ドーンドーンと私の中に入ってくるような感じでした。
それ以降、シャガールという一人の人間が気になってました。
シャガールという人がどんな人なのか知りたくて今回の本を手にとりました。
Contents
シャガールの生きた時代
まずは本をもとにシャガールの簡単な年表をまとめてみました。
1887年 7月6日に旧ロシア、現ベラルー シのヴィテブスクで生まれる。
鰊加工の工場で働く父と食料雑貨店を営む母の間に8人兄弟の長男として誕生。
4,5歳から13歳までは、ユダヤ社会に広まったヘデルでの初等教育を受ける。
その後ロシア語の中等学校に入り、ここから、伝統的なユダヤ教の世界とは疎遠になっていく。
1907年 画家になるため、サンクト・ペテルブルグにある帝国芸術奨励学校に入る。
1909年 レオン・バクストの画塾に入る。
1910年 パリに行く。
1914年 パリから一時帰国して間もなく、第一次大戦とロシア革命が起こる。
ヴィテブスクの大通りに店を構える裕福な宝石商の娘、ベルタ・ローゼンフェルト(ベラ)と結婚。
1922年 再びパリへ。
1939年 50歳の時にフランス国籍取得。
1941年 第二次世界大戦、ナチスの迫害を避けアメリカに亡命。
1947年 パリへ。
1950年 南フランスに永住を決意
1985年 97歳で亡くなり、カトリックの墓地に埋葬。ただし、カトリック教徒であったことは一度もない。
シャガールが生きたこの時代、ロシアは第一次世界大戦、革命、第二次世界大戦、冷戦と続く。
1980年代までシャガールの作品は、封印され公開されることはなかった。ゴルバチョフの改革によってようやくシャガールの作品も公開しやすくなった。この時シャガール92歳。ようやく思慕し続けた故郷ロシアで自分の作品が受け入れられた。まるで長い間母親から拒絶されていた子供がようやく母親に受け入れ、認められた時のような思いだったのではないかと想像する。
アイデンティティ
シャガールは、ハシディズムという宗教的環境のもと育ち日常語としてのイディッシュ語を重視した。
両親、妻ベラとはイディッシュ語を、娘とはロシア語を、フランスに住んでいたのでフランス語の会話はできる、ただし、アメリカに住んでいた時英語を覚えなかったため話せない。
海外に住んでいる時、日本語が聞こえてくるととっても安心するし、仲間がいるという安心を感じる。自分の故郷の方言が聞こえてきたなら、嬉しさと懐かしさと強い郷土愛、同志愛を思い出すに違いない。
私は日本人で日本語を話し、仏教徒で〇〇県民というアイデンティティをもっている。
では、シャガールはどうか?自分のアイデンティティは何だったのだろうか?
シャガールは、ロシア人で、イディッシュ語を話し、ユダヤ教徒でヴィテブスク県民だったのではないかと思う。どんなにフランスに長く住みフランス国籍を取得し、人生の終わりを迎える土地を、生まれ故郷ではなくフランスにしたとしても、シャガールは決してフランス人でもないし、フランス語も第二言語に過ぎず、カトリック教徒でもキリスト教徒でもなく、南仏県民でもなかったのだ。
まとめ
ソ連の移り変わりと崩壊が、シャガールの人生にも大きく影響しているのだなと感じた。
亡くなるまで、全てをさらけ出すことはせず家族、親族、故郷、自分を守るために自制しなければいけなかったシャガールの辛さは、誰が理解したでしょうか?35歳でフランスに出たきり、故郷の土を踏むことはなかったシャガールの辛さは、誰が理解したでしょうか?
誰もできなかったに違いない。
絵をみるとその辛さが少しだけ感じ取れた気がするのだ。
だから、ウィーンの美術館でシャガールの絵をみたとき、涙が止まらなかったのだと思う。
米原万里の「嘘つきアーニャと真っ赤な嘘」を読み、
ジヨージオーエルの「1984」、「動物農場」を読み、
ドストエフスキーの「罪と罰」「白痴」を読み、
更に、今回の本を読み、ロシア、ユダヤ教、社会主義について、もっと知りたいと思いました。
この本は、シャガールの生きた時代背景と環境から、絵の解釈をしてるのだが、正直私には難しかった。なので、今回は、自分が理解できた箇所をまとめた感じになりました。
もっと、ロシア、ユダヤ教、社会主義の知識があれば、絵の解釈の説明も理解できたかもしれないと思いました。
それでは今日は、ここまで!
おやすみなさい
コメントを残す