読書という荒野

「読書という荒野」を初めて手に取ったとき、とても違和感を感じた。荒野という単語からは、荒れ果てた、途方もない、無限にだだっ広い土地を想像するのに対し、表紙の中で書物に囲まれて座っている著者は、じっとこちら(一点)を見つめていたからだ。そこからは、有限な世界は感じられるけれど、無限な世界は感じられない。

幻冬舎という会社をゼロから作ってきた異端の編集者として知られる著者が書く、「読書という荒野」は、発売前から話題になり、実際に僕も興味を持っていた。数々の著書を世に生み出してきた人間が書く、読書というものに興味があったからだ。

そこには、荒野のような、とても広い世界が描かれているのだと想像した。でも実際にそこに書かれていたのは、表紙でこちら(一点)をじっと見つめるような、実践的な、濃密な読書の世界だった。

この矛盾に気が付いたとき、著者の言いたかった事が理解できたと思う。

 

 

血肉化した言葉を獲得する

読書においてまず大事なのは、本を読むことである。とにかく読む。大量に読む。それなくして、読書は語れない。

本の前半で語られる読書体験は、現実逃避の読書である。それは人それぞれだと思う。現実逃避のための読書はきっかけの一つにすぎず、何かを実現させるための読書でも、空白を埋めるための読書でも、何でもいい。とにかく大量に本を読むことが大事だ。

本をたくさん読むという事は、本文中の言葉を借りれば「認識者」になるということだろう。「認識者」は生きる営みに参加する訳ではないので、傷ついたり、悩んだり、苦しんだりする事はない。本を大量に読むという事は、安全な場所から、知識を蓄積するという事だ。

読むことで知識が蓄積し、自身の血、そして肉となっていく。まずは本を大量に読むことで、言葉を大量に吸収して、自分のものにしていく。

 

 

戦う「武器」を手に入れる

本を大量に読むことで言葉を大量に吸収したら、次に必要なことは、それらの言葉を実際に戦える武器に変えていく事だ。この2つめのステップは、著者の言葉を借りると「実践者」になるということだろう。

まずは安全な場所で読書をして、「認識者」になる。そして次は、実際にリスクをとってその言葉を使って発信していく。表現していく。生きる営みに全力でコミットする「実践者」になる。自分の言葉として発信するにはリスクを伴う。これは実際に本を出すという事だけではなく、どんな形であってもいい。Twitterでもいいし、Noteでもいいし、ブログでもいい。なんなら、文章として発信しなくてもいい。セールスの仕事でもいいし、エンジニアリングの仕事でもいい。どんな仕事でもいいから、とにかく実践する。どんな形でもいいからアウトプットする。

この実践によって、「認識者」の時に手に入れた言葉を、本当の意味で自分のものにしいく。

 

 

やりたいことを全てやり、それでもやりきれずに絶望しきって死ぬ

言葉を獲得し、それを自身の武器として使用できるようになり、これを繰り返す。それが読書であると著者は言っている。行き着く先がどこかはわからないけれど、とにかくこのインプットとアウトプットを繰り返す。著者は、アンドレジッドの言葉を借りて、本文にこう書いている。

 

行為の善悪を判断せずに、行為しなければならぬ。善か悪か懸念せずに愛すること。

 

つまり、何のためか、何が起こるかは考えず、徹底的に読書をする。

さらにアンドレジッドの言葉は続く。

 

私の心中で待ち望んでいたものを悉くこの世で表現した上で、満足してー或は全く絶望し切って死にたいものだ。

 

著者は、やり切ったんだと思う。この世で表現したいものをことごとく表現し、出版したい本をことごとく出版し、満足がいく程の読書をしたのだと思う。つまり、著者は有限な世界を完成させている。

その上で、さらにその上で、それでもまだ果たしきれずに、読書とは無限に広がる荒野のようなものだと結論付けたのではなかろうか。

その意味で、この著者が、このタイトルの本を書いたことは重い。この本を徹底的に読みこみ、自分の血肉としたい。

 

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ABOUTこの記事をかいた人

元シンガポール在住のエンジニア。趣味は旅行と、本を読むことと、走ることと、ヨガと、サーフィンと、音楽を聞くことと、カメラと。。。何かに依存せずに自分を持っている人を尊敬します。